注1
マディ・ウォーターズ
:1915年生まれ。サン・ハウスやロバート・ジョンソンに影響をうけ、泥臭いシカゴ・ブルースを確立した。彼のバンドからはリトル・ウォルター、オーティス・スパン、ジェームズ・コットンなど、多くの逸材が巣立っていった。シカゴ・ブルーズの王者である。
『THE BEST OF MUDDY WATERS』
(MVCM-22001)

バディ・ガイ:1936年生まれ。マディ・ウォーターズやサニーボーイ・ウィリアムソンのバックもつとめる。ジュニア・ウェルズとのコンビが有名。

ジュニア・ウェルズ
:1934年生まれ。ジュニア・パーカーを聴いてハーモニカを学び、12歳でシカゴに出る。1952年にリトル・ウォルターの後がまとして、マディー・ウォーターズのバンドに参加。その後、バディ・ガイとのデュオで名を上げた。

ウィリー・ディクソン:1915年生まれ。ソングライター、プロデューサー、セッション・ベーシストとして黄金時代のシカゴ・ブルースを支えた。コンポーザーとして有名でマディ・ウォーターズに「Hoochie Coochie Man」、ハウリン・ウルフに「Little Red Rooster」などの曲を提供した。
注2
オーティス・ラッシュ:1934年生まれ。シカゴ・ブルーズを軸にしながらも、よりモダンなアプローチをしていたギタリストである。マイナー・キーの多用が特徴。左利きのラッシュは、右利き用に弦を張ったギターを逆にもって弾くという、変わったスタイルを持っている。故スティーヴィー・レイ・ヴォーンも彼の大ファン。
『THE COBRA SESSIONS 1956-1958』
(PCD-2128)
 
ブレイクダウン
『ライヴ』(VSCD-3049)
伝説のバンドとして名高いブレイクダウンの伝説のファースト・レコーディング。。服田洋一郎(Gt)、近藤房之助(Vo&Gt)、森田恭一(Ba)、小川俊英(Dr)。
 近藤房之助……。彼を本物のブルーズマンだと私は感じている。しゃがれた声とシャウトは心を突き動かし、エモーショナルなギターには生き様を感じてきた。しかし、一般的なイメージとしてはB.Bクイーンズの「おどるポンポコリン」だろう。でも、彼の本来の姿はブルーズであり、原点はライヴにある。現在、THE PLACEとB&Oという2つのバンドで精力的に活動している。そんな近藤房之助氏をこのWEB用に単独インタビューすることとなった。
以前逢ったときに「アーティストやミュージシャンと呼ばないでくれ、俺はバンドマンだ」という言葉が心に突き刺さったことを思い出す。彼と話をしていると、音楽をやり続ける純粋な心が見えて、気持ちが熱くなってくる。そんな彼の音楽との出会いから現在までディープに語ってもらった。
2001.10.24 下北沢STOMPにて取材
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――音楽との出会いはいつごろですか?
FUSA:一番大きい出会いは、12、3歳でビートルズの『Meet The Beatles』(アメリカでのデビュー・アルバム)を聴いたときだね。その前はリッキー・ネルソンやポール・アンカとかを聴いていたけど、ビートルズが出たら、今までの音楽が全部古臭く感じちゃってね。
――その後もずっとビートルズを聴いていたんですか?
FUSA:うん。あのころはレコードも高かったから、小遣いをためてビートルズのレコードを買って。他には(ローリング・)ストーンズやアニマルズとかもね。でも、ダントツにビートルズが好きだったね。ビートルズでも3コードものってあるでしょ、「I SAW HER STANDING THERE」とか。実は、僕はニュー・ロックとかがまるきりダメで、クリームとかレッド・ツェッペリンが全然好きじゃないのね。「なんで乳首だして歌うんだこの野郎! 」って(笑)。よくわかんなくて、カッコいいと思わなかったんだよ。それで、フリー・ジャズとかブルーズに突然いっちゃったんだよね。
――当時、ブルーズの何が魅力だったんですか?
FUSA:ブルーズって、ハード・ロックよりもハードで、フリー・ジャズよりもフリーキーな気がするんだよね。それに過激でストレートなところがあってね、歌詞でも、「満足いくまで女をひっぱたくんだ」とか平気であるし。アンチコマーシャルのスタイルにシビレたんだと思うんだよね。それで、フリー・ジャズも同じようなものを感じて。それからビートルズはもうすっかり離れちゃってね。決定的になったのはNHKでシカゴ・ブルーズの特番を見た時だね。
――その番組にはどんなブルーズ・マンが出ていたんですか?
FUSA:マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ、ジュニア・ウェルズ、ウィリー・ディクソンとかそうそうたるメンバーで(注1)。「何だこれは!?」と思って。
――マディ・ウォーターズって重い感じですよね。
FUSA:そうだね。あの過激な感じが良かったんだよね。自分が英語が得意だったから、歌詞とか理解できたし、「カッコいいな」って思ったね。そこからギターを弾くようになってね。最初はギタリストになりたかったんだよね。
――その頃はコピーをやったりしたんですか?
FUSA:コピーっていうのはね、一人しかやったことなくて。オーティス・ラッシュ(注2)だけなんだよね。当時は音楽で食っていこうなんて思っていなかったから、むしろ、レコード屋になろうかなって思ってたね。それにレコード・コレクターだったから、海外の廃盤専門店から買ってたの。で、1枚は自分の持ち物にして、4枚は売って食いつないでね(笑)。それで自分のレコード持ち寄って、名古屋のオープン・ハウスっていうブルーズ喫茶で働いて。大学が絵の大学だったんだけど7ヶ月で除籍になっちゃったんで(笑)。家も勘当くらうし、もう、逃げるようにして、そこに住みながら働いて朝から晩までブルーズを聞いていたね。それで、東京や京都からバンドを召集して、月に1回くらいずつライヴやって、それで、ミイラとりがミイラになっちゃって、京都で生まれたブレイクダウンっていうバンドになるんです。
――76年にブレイクダウンを結成(服田洋一郎/Gt、近藤房之助/Vo、森田恭一/Ba、小川俊英/Dr)したころは、憂歌団やサウス・トゥ・サウスなどのムーブメントと時代的に近かったんですか?
FUSA:ブームは、正確に言うと1972年ぐらい。ブレイクダウン結成より前なの。それでそのお祭りさわぎが終わったっていうんで、一週間にいっぺん、気楽に始めようかって。第3月曜日はその店が休みなもんだから、第2月曜日と第4月曜日の間の二週間は地方に出て。多いときは年に200本以上やってたね。
――ブレイクダウンを結成したときは、どういうバンドを目指してたんですか?
FUSA:ヒット街道まっしぐらみたいなことじゃなくて、アンチコマーシャルなことをコツコツとやっていこうかって思ってたね。
――楽曲はどんなのをやってたんですか?
FUSA:ブルーズのスタンダード・ナンバーをやるんだけれども、オリジナルの持ち味をモチーフにして、勝手に自分たちでやっていくっていうスタイル。アレンジしちゃっていたから、どんどん過激になっちゃって、パンク・ブルーズなんて言われたこともあったしね。
――76年から86年まで続いたんですね。
FUSA:うん。このバンドは10年続いたんだけど。もう再結成とかはできないもんね。ドラマー(小川俊英)が死んじゃったから。なかなかニオイを持った、いいバンドだったと思うね、今思うと。ドサまわりいっぱいやったし……、みんなに愛されたバンドだったね。
――ブレイクダウンの後は?
FUSA:そのあとは実験的なことやりたくて、(井上)陽水さんのバックをやっていた、キャラバンっていうバンドを中心に、新しいことやったんだけど、それも、もたなかったね。
――そのバンドが87年結成のバンド、One Armですか?
FUSA:そうです。面白い路線を狙ったんだけど、バンドが一人歩きするところまで持ってかなかった。それでもうバンドがないっていうんで個人名で出て、「なんでもやるぞ!コラ」って、ヤケクソにやったらポンポコリンがヒットしたっていう(笑)。
――ソロ名義で数多くのセッションをしていますよね。
FUSA:うん。でも、バンドマン志向が強くてね。一人でやると寂しいじゃない。嫌ってくらいセッションやったしさ。セッションってホラ、一見のセックスみたいでさ、面白くないじゃない(笑)。もう、通うものはないっていう。自分の説明で終わってしまうし。早漏でごめんね、ってそんな感じで終わっちゃうじゃん(笑)。やっぱりパーマネント・バンドがほしかったね。